感想文(レポート)は書きますが、評論はデキマセン。でもまぁレポートのことを「演奏会評」とか言っちゃうヒトもいて、評論家のセンセイ方にしたら頭に来ることだろうなぁ。。
しかし、聴いては書き、書いては聴き、、、をしているうちに、どうしても“音楽評”ぽくなってきてしまうのだね。事実を書こうにも、「事実=音楽」であって、それを説明≠キることは非常にナンセンスだし、また音楽/言葉/視覚情報 等、翻訳したり置き換えできないものこそが芸術だと思うから。
聴くのは、「今この人聴いておいた方がいいなぁ」と「聴きたいなぁ」が両方。“聴いておいた方がいい”のは、長年の勘のようなもので、この先、オツキアイが発生する可能性が高いから。いやまぁ仕事柄、付き合いたければ自分で申し込めばいいだけなんだけど(って何か違う話してるみたいね? 笑)。
アマチュアの演奏活動もしてるので、友人たちの出ているオーケストラを聴きにいくことも、(めったにないが)時々、ある。
“めったにない”理由は、他の演奏会と重なっていたり自分の練習と重なっていることがあまりにも多いから、ですね。
もちろん、プロの演奏会は、仕事ではソロや室内楽が多いし、たまにオーケストラ、ごくまれにオペラもあるけれども、オーケストラは定期会員をいくつか持ってるし、なるべく聴きに行くようにしている。
それは、曲の生演奏体験が必要なことと、演奏している人たちを聴きに行くこと(指揮者だけじゃなく)、そして「そこにネタが落ちているから」という、とてもマスコミ人な発言をしてみる。
だけど、演奏会に行けば、虚心に耳を傾けるようにしている。だから素直に感動したり怒ったりするし、笑ったり泣いたり傷ついたり幸せになったりもするです。お誘いしてくださる方々は真剣だし、だからこっちも真剣だし。・・・ただ体調悪い時は聴く≠フは結構、ツラいので勘弁してくださいはい。
アマチュアとプロ。
演奏の技量、という意味では比べるべくもない。アマチュアの音が最初に出た時に、その波動に慣れるまではしばらくかかる(耳が最初、拒否反応を示すので)。だけど、しばらくすると、やっぱり心地良くなって、その音律の中で、楽しく聴いている。
どうやら、プロの演奏はマイナス算。アマチュアの演奏はプラス算で聴いてるぽい。
もちろん減点評価とか絶対しません、プロの方のも。でも、「いいですねー素敵ですねー」とばかりは絶対に思ってないから。「どっかバッサリ」切り捨てることはある。頭の中で分析しちゃうんですね。でも、本当に凄い演奏に出会うと、そりゃもう何も考えられないさ、という具合で。私はこの沸点が低いので、わりとほとんどの人が「凄い」ことになっていると思う(笑)。
自分もアマチュア者で、自分が弾く時は、“聴く耳”は、「どっか余所へ」行っていてもらわないと、弾くとかできないし。だから“棚に上がる”ことにしてまして。練習しててもツラいでしょ、じゃないと。だからといって音程が良くないとか、リズムが合ってないとか、波に乗れてないとか。。そういうのもわかるので、時々イヤんなるけど(私のレベルでは出来っこないので)。でもそれでは私があまりにカワイソウなので、少しずつ出来るようになっていることについては、素直に喜ぶことにしている。「あの頃に比べれば、だいぶ上手くなったじゃん」とかいう具合。いつもごめーわくかけてすみませんね>同じオーケストラな方々。
だけど練習中に、他のパートのフレーズ聴いてゾクゾクしたり、管楽器の旋律に涙出そうになったり、というのは中で弾いてるからこその体験。それがまた他の団体の演奏会聴いていても頻繁に起こる。
要するにそこの人たちが「何を目指して、何をやりたいのか」・・・それが何となく伝わってくる演奏というのがあって、そこに皆の必死さが現れていたりするわけですね。音楽って不思議ですな。
私は1音に真剣で、人生を賭けているプロの人たちの音が好きです。
一方で、生活の一部として音楽を愛しているアマチュアの人たちにも助けられている。
いいアマチュアでありたいなーと思いつつ、ある意味のプロでなきゃなんないというのは、なかなか立ち位置は複雑に見えるけど、さほど難しいことではないんですねこれが。
たぶん来年くらいまでは、そんなこと続けていると思うから。また1年、良い年が暮れようとしています。
さて、今日までに上げないとお莫迦だな、と思うXmas Tree。
今年はお隣の老舗真珠店が改装中で寂しいので、銀座山野さん、がんばってます。色が変わるツリーで、観光客の皆さま、立ち止まって撮影にいそしむの図、がいつも見られました。



